Ready-made


〝Fountain〟Marcel Duchamp

僕はこの作品を知って、理解ったのかなんなのか“これだ”とうなずいていた

普通の男子用小便器に「リチャード・マット」という署名をし〝Fountain〟というタイトルを付けただけの作品
既成の物をそのまま、あるいは若干手を加えるだけのオブジェとして提示するReady-madeという手法
さらに、デュシャンに傾倒する若者が別の市販の便器の展示許可を本人から得た際
デュシャンは芸術は受け継がれていくものだと考え承諾し、「R. Mutt」のサインを入れたという


できれば何か残したい、それも新しいものを。
僕の周りはそんなのばっかだった気がする
僕にはそんなことどーだっていい、半分くらいその気もあるけどホントに半分以上どーでもいい
言い方、によるとこが大きいけど
新しいという言葉は慎重に使っていきたい
しいて言うなら自分を残したい。
またまた大げさな話になりそうだけど、すごく単純で
価値観を出していきたい
僕という人から僕という声が出て僕という空気が漂って僕という文字が流れて僕という形が転がって
僕が好きなもの嫌いなものかっこいいと感じるものダサいと感じるもの。
僕が僕という人を確認できて近い人たちに僕という人が認識してもらえればそれだけでいいと思う

またまた変なこと言い出してるけど
僕の今までのやり方考え方に、Ready-madeやDuchampに僕が感じたことってのがどう繋がってんのか
僕の近くの人には理解ってほしい

わからんよね、おれもわからんもん

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